恐るべし日本剣術2011年なのでもう10年以上前になりますが、ハウステンボスで維新館という武道体験道場で私も武道の講師としてお手伝いさせて頂いてた事があります。現在は維新館は存在しませんが、当時は武道の稽古だけでなく、いろんなところからお見えになる皆様へ武道体験をしてもらい武道武術へ関心を持ってもらいたい、というようなコンセプトだったと思います。その維新館館長をお勤めだった修心流居合術兵法の町井勲先生に、とある剣術の体験をさせて頂いたことがあります。お互いに鍔付きの木刀を構えて、町井先生が私の木刀の鍔の右側に剣先を置いて、それを「これから剣先を鍔の左側へ当てますので、私の剣を弾くなりかわすなりしてみて下さい」と言われ、よ~し!と挑戦しました。しばしし~んと緊張した中、突然、パン!”!と乾いた音が響き渡りました。ハッ!!と気づいたら町井先生の剣先が私の剣の鍔の左側に当たっていました。筋肉一筋、髪の毛一本動けない、そんな驚くべき速さ!まさに神速です。「い・・い・今のどうやったんですか?」町井先生はにこやかに「こうやったんですよ」とゆっくりその動きを再現してくださったんですが、私にはそれが全く見えておらず、ただただ驚くばかり。日本剣術恐るべし!!この貴重な体験のおかげで刃物相手の稽古はしても、実際戦ったりしちゃ絶対ダメ!と心の底から実感したのでありました。2025.04.08 04:56
やまのぼり私は毎月1回、知人と山登りに行きます。登る山は片道2時間くらいの小さな山ばかりで、のんびり登って頂上でお弁当を食べて帰ってくるだけ。登山というほどのものではなく、ちょっとした山登りです。山の緑を楽しみつつ、しょうもない世間話をしながらちんたら登るので歩みはやたら遅いのですが、とくに急ぐ理由もないのでぼちぼち休憩しながら自分たちのペースでえっちらおっちら登るのであります。そんな小さな山ではあっても先人が設置してくれた登山道があり、そのおかげで迷うこともなく比較的楽に頂上へたどり着くことができます。一直線に登れるのなら距離的には一番山頂に近いのでしょうが、途中には大きな岩や崖や絶壁、歩けないほどの雑木に覆われていたりと非常に危険で、私のような山の素人ではそんなルートではとてもじゃないですが、登るのはもちろんとても頂上へはたどり着けません。登山道はそんな危険な場所を迂回しながら続いていて、ときには登りなのに下る道もあり、一見遠回りに思えても結局は一番の近道だったりするのであります。こうやって山を登ってると、武道の稽古も一緒だよなあ、としみじみかんじます。稽古を始めた頃は何か秘訣があるはずだ、コツがわかればできるはずだ、とやたら本や動画を見て知識先行の頭でっかちになりがちです。それは登山において近道を登ろうとする行為と似ています。それなりの経験と才能があれば別ですが、私もそうでしたが始めたばかりの人のほとんどは素人同然です。まずは稽古をある程度やり込んで技ができる身体をつくり、それがわかる感覚をみがいてゆく方が先決ではないかと思います。まあとはいえ、その知識は無駄とも言い切れないんですが、ただそれは「知ってるだけで解ってないかも・・・」と常に自重し、知識はあとから付いてくるわい、というくらいのかんじでちょうどよいのであります。頭で知ってることと身体で解っていることは違ったりするんですよね。まずは一歩一歩地道に稽古を積み上げていく方が結果的に近道となりますし、その積み上げた経験こそが自分の力となりその先へ続く礎となるでしょう。たとえヘリコプターで一気に頂上へ行ったとしても、そこに感動はなく山へ登るスキルも身についてはいません。結果も大事ですが、稽古においてはそこまでの過程の方がより深い意味を持つように思います。余談ですが、いつか自分に寿命が来て人生を思い返す瞬間が来ることがあったとしたら、結果よりもそれまで歩んできた過程やその途中で出会った人々との思い出ではないかなあ、と思ったりするのであります。先人が作ってくれた登山道に感謝しつつも、ああしんどいとかモチベーションが続かねーとか、ああだこうだ言いながら息を切らして歩き続け、やがて目指す山頂へたどり着いた!と思ったらそこは頂上ではなくて、その先にもっと高い頂きが現れて愕然とするのでありました。2025.03.28 07:13
謹賀新年明けましておめでとうございます。昨年はコロナの影響で何かと大変な年になりました。当道場も昨年末から稽古を見合わせております。コロナ自体は公的統計を見る限り、現実的には風邪と同程度の大した病気ではないとはいえ、煽り建てるマスコミの影響を受けた世間は半ばヒステリー状態とも言えるような状態です。病気そのもの被害よりも、コロナに感染したことの方をことさら重大視し、まるで犯罪者のを扱うかのような風潮のため、無理に稽古を続けるわけにもいかないのが現状です。人は自分は自分の事はわかってる、自分はちゃんとした人間だ、なんて思っているものです。これは年を重ねた人生の経験が長い方や地位の高い方ほどその傾向にあり、自分は間違ってはいない、常に正しい!と心底思い込んで、それを疑うことすら考えも浮かばないものです。ですが人は今、自分が何を言っているのか、今何をしているのか?案外わかってないものです。いづれコロナ騒動が収まってきたとき、なぜあの時自分はあんな事言ってしまったのだろう?なぜあんな事をしてしまったのだろう?などと不思議にかんじてしまうかも知れませんね。何はともあれ、今年はワクチン接種もはじまるようですし、いい加減落ち着いてくれるんじゃないかと期待しています。今年は皆様にとって幸せで良い年になりますように。本年もどうそよろしくお願い致します。2021.01.01 12:19
お盆今年もお盆がやってきました。光陰矢の如し。うかうかしてると人生はあっと言う間に終わってしまいます。何かやりたい事があったらガタガタ言わずやりましょう。損得を考えずやるのも良し。損得を考えてやるのも良し。その時、うまく行かない!と嘆いたとしても、振り返ってみれば結局人生なんとかなっているものです。あまり深刻にならず、心の力を抜いて一歩を踏み出してみましょう。今日は亡き父母と祖母、ご先祖様に感謝し、お墓参りに行ってきます。2020.08.13 00:24
根拠の無い自信「出来ると思うんですよ」「出来そうな気がします」同じ道場に通っていたその彼は私より10歳以上若い人でしたが、日頃からよくそう言ってました。師匠の稽古は理屈は言葉ではほとんど教えてくれず、技をかけるだけの教え方で、技が出来なくても「わからない?それじゃあしょうがないねえ」というかんじでしたので、みんな頭をかかえてうんうん唸るばかりで10年以上習っていてもさっぱりわからない、それが当たり前という状況でした。彼にしても当初は皆と同じでまだ技ができるわけでもなく、理合も皆目わからないというのにそんな大それたことを言っているので、なんだコイツ、何を根拠に出来るとか言うんだ?ずうずうしい、と最初の頃はその根拠の無い自信に少し腹立たしささえかんじていました。大東流の稽古ほんとうに難しく、私などは彼と逆で「まったく出来そうな気がしない」と思っていたので、まあ当然そう思うわけです。でもその彼がその後、比較的短期間で一番できるようになったのであります。しかも一度も習ってない技までやってのけた時にはさすがに驚きました。なんて才能のあるヤツだ、この人はもしかして天才じゃないのか!?と思いました。またこれまで出会った高名な達人クラスの武道家の先生方もみな同様にやったことがない技でも「出来ると思う」と言う人ばかりでした。一方で同じようにやった事もないのに「自分だけは出来る」と思っていて習い始めても結局出来ずにやめてしまう人もいます。両者とも同じ「根拠の無い自信」の持ち主ですが、何が違うのでしょうか?私はその後、その天才の彼と気が合った事もあり先輩と一緒に道場外でよく稽古するようになったのですが、その時思い知らされた事があります。彼は日頃からああでも無い、こうでも無いと考え抜き、仮説を建て立証を繰り返すいという、自分なりの稽古をひたすら積み重ねていたのであります。天才か!?と思ったその彼は、「努力の積み重ねを楽しめる」天才だったのですね。よく考えてみると師匠も同様のタイプの人だったと思います。同様に根拠の無い自信を持っていながら途中でやめてしまった方は、そんな積み重ねなどほとんどと言っていいほどしておらず、道場内だけの稽古だけに終始していました。そんな人の「根拠の無い自信」はまるで宝くじを買って、自分だけは当たる、と思っている人と同じようなもので、それはまさしく「傲慢」というものであり、同じ「根拠の無い自信」であっても似て非なるものだったのですね。そしてそこにもうひとつ、出来る人、出来ない人に共通するある要素が加わります。とまたも偉そうに語っていましたが、私の場合は稽古も少ない上に、さらに「出来る気がしない」と思ってたくらいですからもっと最悪でございました。2020.08.13 00:11
ぶつからないこと「ぶつからない」大東流にの稽古では、よくそう注意されます。大東流だけでなく、他の合気系の武道も同じではないでしょうか?たとえば、小手を掴み押してくる相手に押し返さず、引いてくる時も同じように抵抗せず引かせる。つまり相手の力に対して抵抗しないような状態ですね。そしてそれは相手を投げる時も同様です。各道場によって解釈は異なるかとは思いますが、これは大東流の基礎として基本中の基本みたいなもので、私が習った道場では最初から基本のひとつとしてずっと稽古していました。稽古の目的はと言いますと、ひとつには「相手を反応させない動き」を稽古しているのであります。人というのは無意識下では膨大な情報を感知していると言われています。一説には普段の意識上に上がる情報の10万倍の情報を無意識下で処理しているなんて言われています。10万倍の情報とはまた驚くべき膨大な量です。あまりにも膨大な情報量なので全部を意識にあげていてはとても活動はできません。なので無意識が自動的に取捨選択して、重要なものだけをピックアップして意識上に上げるのですが、もしこれが本当なら人が意識的に自覚している情報は、ほんのわずかしか無いということになります。そしてさらに自動化というのもあります。こういう時にはこう動く、と一定の動きは自動化されていて意識せずとも身体が動いてしまいます。身体は勝手に動いているんですよ、なんて言うと、なんだコイツ怪しいヤツだな、みたいな顔をされるのですが、いざ稽古を始めてみると皆そのことを痛烈に実感するのです。大東流では自らもそういった”当たり前”の動きをしないことで、相手の自動化している動きを反応させない訓練をするのです。この動きが大東流を稽古するにあたってのベースのひとつになるのですが、これがまた非常に難しく、かつ非常にやっかいなのであります。なにせ無意識の動きなので、そんな簡単には制御できるものではないのですね。頭ではどんなに分かっているつもりになっていても身体はそうは動きません。ひたすら稽古して、自分の肉体感覚で掴み取るしかないのであります。何かの秘訣を聞いたら使えるようになるとか、ちょっとしたコツを聞けばできるようになるとか、そんなのは漫画の世界の話でありまして、現実は地道にコツコツ稽古を積み重ねたその先にしか無いのであります。こういった身体の反応は心もまた同じで、何か気に障ることを言われたら即座に怒りの感情が湧いてきたりと、何かの出来事に対する自分の心的反応も同様の原理なのであります。そしてそれらは無意識なだけに、自分が反応で動いていることにすら気づかないのですね。余談ですが、人というのは一日の活動している時間は思った以上に無意識下で自動的に動いていて、それはまるで寝てることと同じようなものかも知れないなあ、なんて思ったりもします。そして何より大東流の稽古が難しいのは、同時に求められる要素がそれだけではないからなのであります。とまあ、分かったふうな事を偉そうに述べてしまいましたが、こういった事は師匠から説明されたことは無く、あくまで私自分が稽古を続ける上で考察していったもので、全く浅いものだと自覚しておりますし、もしかしたら勘違いしているかも知れません。武道の稽古はある意味、主観的に捉える必要があり頭ではなく身体で理解すべきものなのですが、とは言えあまりにも説明が無いと一体自分がどこへ向かっているのかわからなくなるんですよね。自分の考えを捨て、よそから持ってきた理屈を当てはめようとせず、ひたすら”没頭”して稽古することが肝要なのですが、そんな事言ってる自分はそれを出来ているのか?!と問われますと、そこはちょ~っと怪しいなあと冷や汗をかくのであります。2020.07.31 10:26
1を聞いて10を知ったつもり!?認識できないことは、その存在にすら気づきません。人は自分が”知らない”ことは認識ができません。認識できないということは、その存在にすら気づくことはできないのであります。大東流だけでなく、古来からの武道にはそういう類の技術が多く存在していると思います。なので自分の過去の経験や知識を引っ張り出してきて、いま習っていること当てはめてみても、そもそもの土台が違っているため、百害あって一利なしとなってしまうんですね。まあ一利なしとは言い過ぎかも知れませんが、習得がずいぶん遠回りになってしまうのは事実です。大半の武道では、たとえ他流派でそれなりの実力を持っていたとしても、違う流派に入門する場合は、まずは過去の経験や実績は捨て頭を真っ白にして、生まれて初めて武道を学ぶかのような姿勢を求められます。ですが、そうは言っても人間そう簡単に真っ白にはなれるもんじゃないです。特に人生の経験値が高い方ほど難しい問題のように思います。そしてこれは何も武道に限ったことではないかも知れませんね。年齢による習得の差?何か新しいことを学ぶ時、一般的には若い人の方が覚えが早く上達度も高いのに比べ、年齢が高くなればなるほど習熟が遅くなるのは、単に身体が衰えてきているから、というだけでなく、年齢とともに積み重ねた「経験」が邪魔をして、本質を理解できないからという理由の方が大きいように思います。年齢により身体の衰えはあるにしても、80代になっても筋骨隆々で若者に負けない動きをされるウルトラスーパーおじいちゃんがいらっしゃいますし、必ずしも身体の問題だけとは限らないと思います。若い人は経験が少ないぶん余計な知識も無く、また成功体験も少ないためとりあえず言われた通りに、出来るようになるまで一生懸命やろうとします。ところがある程度人生経験を積んだ年齢になると、まずは言われた通りにやろうとしないものです。あれこれ説明しても聞いてるけど聞いていない、そんな人が多いように思います。自分の常識に変換して自分の考えでやろうとするんですね。まず初期段階においては自分の考えは一切入れず、どんなにできなくても言われた通りにやってみようとする事が大切です。1を聞いて10を”知ったつもり”になる、とでも言いましょうか。「知っている」と「理解している」は違います。また理解しているから出来る、というわけでもないんですよね。知らない事を意識は認識すらできないので、そんな状態であれはダメだの、他ではこう言ってるだのと屁理屈をこねくりまわして、何だかんだと批判的になったりする前に、自分の稽古量が少なすぎる、ということを自覚する方が先決だと思います。また長い人生経験以外にも、虚栄心や見栄などは大きな障害になります。人から良く見られたいだとか、凄いと言われたいなどと言ったことは、何かを始めるきっかけには良いのですが、いつまでもそこにとどまっていてはおかしなことになってしまいます。他人目線で自分の行動を決めるのは、他人に人生を操られているのと同じです。他人が自分に興味を持ってくれなくなると、すぐに冷めてしまい結局続かず途半端にやめてしまうことになりますし、それをベースにしている人は技の習得や技術の進化よりも、その道の権威に成りたがるので、お金で段位を買うような、そういう武道の本質とは違う方向に行ってしまったりするものです。また何かしらの奥義やらテクニックを知れば簡単に出来るようになる、なんてことはまずありません。どのような奥義や秘訣も、コツコツと積み上げた稽古のその先にしか無いのであります。例えばテニスをやろうとして本を読だりYou Tubeを見たりして、ちょっこっと練習しただけで、プロテニスプレーヤーと同等になった!と言うようなもので、なんとも尊大でその道を真剣に歩んでいる方々に大変失礼なことだと思います。積み重ねたもの通してでしか得られない事があるのは、人生経験の豊富な方なら良くわかると思います。とまあ、偉そうにまるで他人事のように言ってしまいましたが、これ実は私自身の事が多分にありまして、思い返しますとほんと赤面もので、冷や汗たらたらです。まずは自分の考えを捨てましょう。まとめると1.経験の無いものを学ぶ時にはまずは自分の考えを捨てた方が良いです。 それまでの経験はある程度のレベルになれば必ず役に立つので、それまでは一旦捨て置いておきましょう。2.わからないなら、わかるようになるまで稽古を積み上げ、自身の身体をベースに研究を深めていく姿勢が大切です。3.常に自分は分かってない、とにかく稽古が足らない、と常に自戒しましょう。とまあこんなところでしょうか。こう偉そうに書きながら、自分自身が一番ダメやんけ!とギクリとしてしまいましたが(大汗)そして何より何かを習得するには、兎にも角にも面白がって取り組むことが一番です。2020.06.25 09:40
コロナ現在コロナウイルスによる災禍が世界中を巻き込んで猛威を奮っています。若い方はともかく、ご年配の方の致死率は高くご家族に高齢者がおられる場合は用心が必要です。このコロナウイルスの致死率は、ここ日本においては1%程度とインフルエンザの2%より低いことから、きちんと感染対策をしておけば現時点ではそう怖いものではないと思われます。これから感染が拡大していけば、逆に致死率はさらに下がることになります。ただし人口の多い国ではたとえ致死率1%と言えど、相当な人数になってしまいます。それはとても悲しいことではあります。またコロナ収束後の経済的な打撃の方が、今後は世界、特に消費税増税で疲弊した日本においては大きな災厄になる可能性があります。もしかしたら国のシステムが変わってしまうところまで出てくるかも知れません。これからどうなるのかなんて誰にもわかりませんが、今は世界中がパニック状態にあるということをしっかり認識したうえで、パニックに巻き込まれないようできるだけ冷静に対処するよう心がけたいものです。2020.02.13 01:25
謹賀新年明けましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今冬は比較的暖冬ですが、日によって気温の変化が大きいので体調管理にはじゅうぶんお気をつけください。当道場の初稽古は7日です。今年も楽しんでまいりましょう。2020.01.03 03:35
稽古納めと稽古初め今年も残すところわずかになりました。今年は皆様にとってどんな1年となりましたでしょうか?来年も皆様にとって良き一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。天山道場の稽古納めは26日、令和2年の稽古初めは1月7日の予定です。来年もよろしくお願いいたします。2019.12.24 01:41